◆ セーピアのその後 ◆
作:緋凪鳩羽

―――ビューブルーメル子爵家、午後2時。
 再びラドマーニ侯爵の下で働くこととなったセーピアだが、その生活は以前とまったく同じ、というわけには、もちろん行かなくなった。
「お探しのものは、全てこの部屋にあると思いますよ」
 ビューブルーメル子爵家、当主マレット自らが案内した部屋は、窓を分厚い布で覆われていて、昼中だと言うのに薄暗かった。
「僕にはどうにも芸術の価値がわかりませんでしたから、まとめて保存しておいたほうが楽だと思いましてね」
 飄々と言うマレットは、20代も半ばを過ぎたあたりか。
 窓際に歩み寄って、覆いのひとつをはずす。とたん、溢れかえる光に、セーピアは目を細めた。
「どうか、ふさわしい場所に持っていってやってくれませんか?」
 数々の絵画をはじめとする美術品に埋め尽くされた部屋の中、冴えない容貌の子爵は頭を掻いた。

「前ビューブルーメル子爵―――僕の母のことですけれどね、彼女は人生楽しまなくちゃ損だっていつも言ってました」
 美術品のチェックを終え、セーピアとラドマーニ公爵は子爵家の居間にいた。
 埃っぽい部屋でずっと作業をしていたので、少し休憩をしないかとマレットが申し出たのだ。
「で、その楽しみの一つが、あの部屋にあるものです。大して価値は無くても気にいれば買い取っていましたから、そんなに貴重なものは無かったと思うんですが」
 確かに、セーピアの書きとめた記録の中に、国宝と呼ぶほどのものは無い。だが、あのようにひとつの部屋にまとめてしまいこんでしまうのはもったいないものが多かった。
「僕が子爵になった理由も、母が『老後を楽しみたいから、もう肩書きは要らない。あなたが子爵家を継ぎなさい』と言ったからなんですよ」
 変わった人でしょう? と肩をすくめるマレット子爵に、思わずきょとんとした視線を投げかけるセーピア。
 ラドマーニ公爵は、あくまで泰然として紅茶を楽しんでいた。
「その時に、財産の全てをどう処分するのも自由だと言われたので、今回お手数をかけることになったんですが」
 今まで頑として調査を拒んでいたビューブルーメル子爵家が、なぜ突然態度を変えたのか理解し、セーピアはこっそりと胸をなでおろした。
 あのことがあった直後に、ビューブルーメル子爵家から美術品の調査依頼がきていたので、もしかしたらセーピア見たさの変心かと、内心びくびくしていたのだ。
「あー………そういえば、部屋にもいくつか気に入ったのを持って行ってたか。申し訳ありませんが、お茶を飲んだらもう一度ご足労願っても?」
「セーピア、お願いできますか。私はこの後、姫様とのお約束がありますから」
「はい、ラドマーニ様」

「そこにかけて少し待っていてもらえるかな、さすがにレディを寝室に連れ込むわけには行かないしね」
 彼が手ずからいれた紅茶を前にして、セーピアは少しだけ意外だと思っていた。あの結婚式からの一連の騒動は、社交界でかなり有名になったという。なのに、マレットは知らないのか、セーピアのことをごく自然に「レディ」と呼んだ。
 小首をかしげながら大人しく待っていると、マレットは小さなガラス細工を手に戻ってくる。
「寝室へ持ち込んだのは、確かこのひとつだけだったと思ったが」
 いいながら、ぐるり部屋の中を見回す。残りはこの居間の中にあるということだろう。
「では、失礼ですが、少し調べさせていただきますね」
 羽ペンと紙を取り出しながらセーピアは立ち上がる。壁にかかった絵画数点、置物数点が目に留まった。
「はー、やっぱり僕にはあまり価値がわからないものばかりですね」
 熱心にメモを取るセーピアの背後からひょいと手元を覗き込んで、マレットは感心したように呟いた。
 突然の至近距離に、セーピアが思わず硬直する。
「おっと、失礼」
 笑って大人しく席についたマレットは、ガラス細工を指先でつついてセーピアが向き直るのを待った。
「………ビューブルーメル子爵」
「マレットと呼んでください」
「では、マレット様。あなたは美術品の価値があまりわからないとおっしゃる、なのにそのガラス細工を寝室にまで持ち込んだのはなぜですか?」
「うん。それは単純な理由だよ。きれいだったから」
 あっけらかんと明るく笑うマレットに、セーピアは固まった。
「きれい、だったから、ですか……」
「そう。君にも無いかな、そのものの価値なんてどうでもよくて、ただ大切なものが」
「……あります」
 マレットは目を細めて笑う。
「コレは、そんなに価値があるものなのかな」
「あ、いえ、そんなことはありませんが」
 小さなガラス細工は、愛らしい犬の形をしていた。

 セーピアは馬車を背にマレットと向き合っていた。
 一通り屋敷を見て回った後のことである。馬車はマレットが用意しておいてくれたものだ。
「………マレット様」
「うん?」
「一度も、私のことについてお聞きになりませんでしたね」
「ん?」
 意味がわからない、と言うように首を傾げるマレット。
「私の結婚式………噂で、聞いたのではありませんか?」
「あぁ、とても美しくて、勇ましかったと聞いているよ」
「やっぱり、知ってらしたんですね………」
「うん」
「おかしいと思いませんか?」
「何が?」
「私が、今でもこうして侍女として働いているのを」
「うーん。そうだな、メモを取っている間、君はとても楽しそうに見えたよ。だから、それでいいんじゃないかな?」
「………」
 ぱちりと、セーピアの大きな目が瞬きをする。
「男だとか女だとか、そんなことを気にしなくても、君は十分に働いてる。それでいいんじゃないかな」
 ぽん、とセーピアの頭に手をのせて、マレットは笑った。
「物事を複雑に考えすぎずに、もっと簡単に考えればいいんだよ」
 目を丸くするセーピアに、マレットは年寄りからのアドバイス、とからかうように言った。
「マレット様は、まだ年寄りと言うには早すぎますよ………」
 なんだか、胸につかえていたものが取れた気がして、セーピアは明るく笑って応えた。